海外で生活する人たち。
理由は人それぞれあると思う。
海外生活にメリットを感じて住んでいる人、仕事の都合で仕方なく住んでいる人、「海外の方が肌に合うから」という理由で移住する人もいれば、日本が嫌で出て行く人もいるだろう。
自分はというとどれにも該当しない。
もちろんやりたい事はたくさんある。しかし特別何か崇高な目的があってやってきた訳ではないし、さすらうように今ドイツに流れ着いて住んでいる。
日本がどうこうもない。日本は好きだし、むしろ(あくまで自己診断だが)性格的には日本社会の方が適性というか向いている気がする。
ではなぜ海外にいるのか。恥じらいなく言ってしまえば自分はただただ海外のカルチャーにどっぷりと浸かってしまい、その地に自分の身を置いたに過ぎない。
要するに海外かぶれみたいなものである。
でもだからといって日本に否定的とかそういうわけではなく、日本は好きでありつつも海外により関心が向いてしまっただけの話。
自分は至って一般的な、しかしそれなりに恵まれた家庭環境で生まれ育った。
幼少期海外で過ごした経験もなければ学生時代長期の留学経験があるわけでもない。
しかし度重なるひょんなことがきっかけで自然と海外に興味を持ち始めて、「住んでみたい」という好奇心を持つようになった。
大人になった頃には海外で暮らしたいという思いはより一層強くなり「何が何でも達成してやる」というある種の執着心のようなものに変わっていった。
ターニングポイントとなったのはいくつか思い当たる。
過去の記憶から遡って今考えてみると、一つには父親の影響があるかもしれない。
仕事の都合でヨーロッパやアジアに海外出張に行っていた父親は帰国した際にお土産とともに現地の通貨などをくれた。
教育熱心であった父親の影響で本に囲まれて過ごした幼少期、その中には事細かに描かれた世界地図の本などもあった。
とはいっても当時それらに夢中になって読み漁った記憶もないので直接的な影響があったとも言い難いが。
洋楽に夢中になった中学時代
中学に進学してから洋楽を聴いたり洋画を観るようになる。
当時音楽や映画に触れる方法としてはTSUTAYAに行ってCDやDVDをレンタルするのが一般的。
昔から少し捻くれているというか人と違うことに関心を持つ性格であり、洋楽というと普通ポップやロックから入るものだが自分はなぜか端の小さなスペースに設けられたヒップホップのコーナーにを持った。
今ほどインターネットが身近な存在ではなかった時代。CDに入っている歌詞カードの冒頭にはライナーノーツなるものがあり、それを頼りに情報収集していった。
当時ギャングスタラップというジャンルが流行っていて50セントが入り口だった。
その後エミネム、ドクタードレー、スヌープドッグ、ノトーリアスBIGなどなど挙げていけばキリがないが英語に関して言えば無駄にスラングをたくさん知っている学生であった。
高校で人生初の海外渡航
そこから高校へと上がり、ふとしたきっかけで夏休みの期間イギリスへ語学研修に行くことに。
その内容はイギリスには名門パブリックスクールというのが九校あり、そのうちの一校で寮生活しながら英語を学ぶというもの。
今でこそ海外で生活しているが当時は全くといっていいほど興味がなかった。
何よりイギリス、というかヨーロッパに一切関心がなく、前述した通りヒップホップから海外に興味を持った自分の関心はアメリカに向いていた。
それに当時運動部に所属していて毎日部活に明け暮れていた矢先、夏休みをまるまる海外なんかで過ごしたらかなりの遅れを取ってしまう。
しかし親の説得により嫌々ながら結局行くことに。(なんとも贅沢な話だが)
これが良くも悪くも自分の人生を大きく、180度変えてしまった。
初めての海外。
空港から出て街に出た瞬間のニオイからもう全てが違っていた。
今まで人生で出会ったことのない背景を持つ人々、異なる言語と文化とにかく全てがこれまで味わったことのない体験。
今振り返れば当時やっていたことはなんら大したことはない。
一人部屋の寮で目覚めてから朝食を食べ、学校へと向かい午前中は授業を受けて午後はスポーツをしたり観光したりする。
なんてことないのだが、世界中から集まった人たちと共に過ごすというインターナショナルな環境が自分にとって特別な空間であった。
毎分毎秒全てが新鮮で、刺激的で衝撃の連続。多少の恋もした。
たった一ヶ月程度の海外滞在であったが日本では決して味わうことのできない非日常に晒され、帰国後は抜け殻のようになってしまった。
逆ホームシックの状態である。
所属していた部活は「このまま毎日練習に明け暮れて青春が終わってしまうのは嫌だな」と思い、退部。バンドで音楽活動を始めることとなった。
バイトも始めた。
日が経てばなんということもなく日本の生活に馴染み、青春を謳歌した。
高校生ができることはほぼ全て経験したんではないだろうか、というくらい遊びきった自信がある。
旅に明け暮れた大学時代
その後大学に進学。イギリスでの日々もすっかり忘れていた頃、沢木耕太郎の本と出会う。
ここから自分の中で第二の海外ブームが訪れる。
大学時代はバックパッカーとして旅に明け暮れた。
友人と行く時もあれば、一人でふらっと行く時もあった。
以前どこかにも書いたが将来アメリカもしくはヨーロッパのどこかに住むことは決めていたので「日本にいるうちにアジアの国々を回りまくろう」とアジアを中心に旅をした。
これは再び英国に訪れることとなった大きな要因の一つだと思う。
高校時代の渡英経験は「体験」としては刺激的で楽しかったがそれだけに過ぎず、海外そのものに興味が湧くことはなかった。
しかし個人旅行では純粋に異文化に触れる楽しさを知った。
大学の初めの頃はまだようやくスマホが普及してきた辺りの時代であり、スカイスキャナーもなければBooking.comやAirbnbもない。(もしかしたら一部あったのかも知れないが当時はその存在を知らず、大学生の後半から使い始めた)
航空券を買うにしても旅行代理店に行っていたし、現地では地球の歩き方を片手に場所を調べたり泊まる場所を行き当たりばったりで決めていた。
旅先では同じ日本の人たちはもちろんのこと、様々な国の人と出会い交流した。
大学生になってからは英語により多く触れるという目的で洋画と並行して海外ドラマを観るようになる。
洋画や海外ドラマなんて多くの人が通る道だろうが、自分の場合はその没入度合いが違った。
登場人物たちが繰り広げる英会話を一語一句噛み締めるように、出てくる英語表現を全て吸収するつもりで鑑賞した。
次第に「一度海外に住んでみたい」とかそんなものではなくて「残り一生を海外で過ごしたい」という思いで、どっぷりとのめり込んでいった。
しかし大学生活も終盤に差し掛かってきた時、ふと一つ疑問が湧いてくる。
「どうやって海外で生活できるのだろうか」と。
一般的に言えば日本で商社やメーカーなどに就職し、駐在という形で海外に行くのが普通だろう。
しかし自分にはその選択肢はしっくり来なかった。
海外とはいえ結局現地で日本人に囲まれた環境というのにはあまり魅力的に感じなかった。(もちろん企業にもよるだろうがまだ学生だったためその辺りの知識は浅かった)
となると現地就職しかない。
しかしろくな職務経験も海外経験もない自分にそんなことは無理であろう。
そもそもイギリスに行きそこからドイツへと渡り、さらにそこから就労ビザに繋げるなんていうこんな荒くれ人生をする予定ではなかった。
理想を言えば自分も語学学校やコミュニティカレッジ、現地大学への編入などそういったことがしたかった。
しかし日本ですでに大学生をしている自分にそんな時間もお金の余裕もなかった。
海外の大学院を目指すというのも考慮に入れて当時色々と調べていたが、大学の成績は芳しくなかったしそもそも大学院に行くには目的が曖昧すぎて違う気がした。
結論自分にはとりあえずワーホリに行き、そこからどうにかこうにか方法は定かではないもののなんとかその国に滞在することを目指すというルートしかなかった。
結局日本のとある企業から内定をもらい大学生活を終えることとなる。
ついに念願の海外へ
今思えばイギリスに行くことを決意したのも単なる偶然であった。
知人がYMSでロンドンに旅立つことになったのである。
それまでYMSビザ(簡単にいってしまえばイギリス版ワーホリ)の存在すら知らなかったし、考えたこともなかった。
ワーホリといえばオーストラリアかカナダだと勝手に思い込んでいた。
社会人になってからというもの海外生活なんて現実味が全くなく夢のまた夢で、正直諦めかけていたというかそんな思いが自分にあることすら忘れかけていたが「知り合いがいるなら少し安心だしどうにかなるかもな」と思った。
今でこそ海外生活に慣れきってしまってどこに行ってもどうにかする自信はあるが、当時は不安でしかない。
短期かつ語学目的で海外に行くのと長期かつ就労目的で海外に行くのとでは全く違う。
なにしろ住む場所から仕事から諸々の手続きに至るまで全て自分でやらなければいけない。
しかも海外に住んだことすらないのにそんなことが果たして自分に可能なのだろうか。
そんなことを思いつつも、友人がいる、かつイギリスには一度行ったことがあるという要素が多少不安を掻き消してくれた。
YMSには一つの関門がある、それは抽選制であり、皆が皆行けるものではないということ。
人によっては毎年何年間も応募してようやく行ける人もいれば、当たらず31歳になってしまい結局行けずじまいという人もいる。
要するに運である。(ちなみに来年からはこれまでの4倍の6000人に増枠されるらしい)
しかし自分は一発で当てるという謎の自信があって、実際一発で当選。
この時奇しくも沢木耕太郎が海外へと旅立つ時と同じ年齢になっていた。
そして導かれるように二度目となるイギリスに向かうこととなった。